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青木保『日本文化論の変容』の視点から見る日本劣化のプロセス(4)

青木保のいう第三期「肯定的特殊性の認識」の時期は前期と後期に分かれる。

前期は1964年から1976年まで、後期は1977年から1983年までである。

「肯定的特殊性の認識」の時期の前期に書かれた「日本文化論」のうち、前回紹介した中根千枝「日本的社会構造の発見」(1964)『タテ社会の人間関係』(1967)、作田啓一「恥の文化再考」(1964年)、尾高邦雄『日本の経営』(1965年)、土居健郎『甘えの構造』(1971年)、木村敏『人と人との間――精神病理学的日本論』は日本文化の特殊性を肯定的に評価する視点が見られたが、ナショナリズムを明確に前面に出しているというわけではない。

1964年は、新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された年である。この1964年から「肯定的特殊性の認識」が「日本文化論」の前面に出てくるようになり、それにつれて、日本国内も佐藤政権が成立して政治的対立よりも保守的安定の方向が定まってくる。1968年には「プラハの春」がソビエト軍によって破壊され、フランスにはじまる大学紛争は日本でも激しく展開されるが、一般社会まで及ぶことはなかった。

そうした状況の中で、1968年に三島由紀夫の「文化防衛論」が出る。

三島由紀夫は、『文化防衛論』(1968)の中で、当時の日本の「文化主義」を批判した。三島のいう「文化主義」とは、文化を、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする傾向である。そこでは、文化とは、何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものになる。それは戦後日本が米国の占領政策と文化官僚の事なかれ主義によって、「文化を生む生命の源泉とその連続性を、種々の法律や政策でダムに押し込め、これを発電や灌漑にだけ有効なものとし、その反乱を封じることだった。それは「市民道徳の形式の有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧することだった」と三島はいって、「福祉価値と文化を短絡する思考は、大衆のヒューマニズムに基づく、見せかけの文化尊重主義になった」と批判する。三島によれば、「戦後民主主義」と「大学社会」の中で、文化は「博物館的な死んだ文化」と「天下泰平の死んだ生活」の二つしかなくなり、しかもその二つは完全に化合している。

文化を「物置」としてとらえようとする政府と野党と大衆の「文化主義」に対し、三島が展開する批判は、日本の文化は「一つの形」であり、「国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体」であって、芸術作品だけでなく「行動及び行動様式を包含する」ものであることを基点としている。

三島によれば日本では、「ものとしての文化への固執が比較的希薄であり、消失を本質とする行動様式への文化形式の移管が特色的」である。日本文化は本来オリジナルとコピーの弁別をもたない。それは伊勢神宮の造営にみられるような「オリジナルとコピーの間の決定的な価値の落差が生じない」ものである。

こうした「消失」を旨とする文化概念は、天皇のあり方にみられ、「各代の天皇が、まさに天皇その方であって、天照大神とオリジナルとコピーの関係にはないというところの天皇制の特質と見合っている」と三島は述べる。

全体として三島は、「戦後体制」の見せかけの「文化主義」にひそむ欺瞞を糾弾し、文化の「全体性」の回復を主張する。その「全体性」には「時間的連続性」と「空間的連続性」が含まれ、前者は「伝統と美と趣味」を保証し、後者は「生の多様性」を保障する。両者の合体するところに成立するのが、「文化共同体理念」である。この理念だけがイデオロギーに対抗しうるものであり、「文化共同体理念」には「絶対的倫理的価値」と文化の「無差別的包括性」をもつことが要求される。そこで三島は「天皇制」を「文化概念」として提出するのである。

三島は、日本文化の「形」にこだわり、「天皇制」を「自由と優雅という立体的構造」をもち、「みやび」の源泉であるところの、「文化の全体性」を体現するものであると主張した。逆に「自由と責任という平面的な対立概念」の中にはそれは存在しないといって、「近代主義」や「マルクス主義」を批判するのである。

1960年代に入って、イデオロギーから現実主義への「思想的転換」と「社会変化」が、高度経済成長の中での「必然」としてみられるようになってゆくが、三島はこうして「肥大」してゆく日本文化の変化を本質的に見抜いていた。

「文化概念」としての「天皇制」を日本文化の基本と仰ぐ三島由紀夫の「文化絶対主義」の主張は、1960年代末から1970年代にかけての「肯定的特殊性の認識」の深まりを示すものとして捉えられる。三島自身の極端に美学的な、また日本文化の「形」への求心的な特殊性の主張には、鋭い左右の「見せかけ」の「主義」批判と「物質主義」批判が含まれているし、その立論には現状への激しい糾弾が含まれているのだが、このような論点も加えながら「日本文化論」の大勢は「肯定的特殊性の認識」をはっきり主張するようになるのである。注意すべき点は、三島の議論には強い「反相対主義」的性格がみられる点である。「天皇制」を日本文化の基本と仰ぐ「絶対主義」の主張がそこにはある。「言論の自由と代議制民主主義との折れ合い」を「言論の自由が本質的に、文化の全体性のうち、その垂直面、すなわち時間的連続性には関わらないから」だとして否定するところに、「文化防衛論」の強調する論点が示されている。

1970年代には、「日本文化」の「肯定的特殊性」を認める「日本文化論」は、一段とその「肯定性」を深めてゆく。この頃には日本経済の高度成長は世界で抜きん出ており、「オイルショック」を切り抜けて、日本の地位は際立って飛躍していった。

公文俊平が指摘するように、1970年代の日本研究は、それ以前の研究にみられた「西欧近代社会」を潤拠点にすることを超えて、「近代化=西欧化」という視点を離れたところに、新たな領域の開拓を試みるようになった。1970年代には、いっそう強く「日本人とは何なのか、日本人の可能性は」という「アイデンディティ」を問う試みがなされるようになる。

「近代化ー民主化」の「先進モデル」としての「欧米」に対して、日本の「独自性」を追求する傾向は、一層強化されていった。

それとともに、1955年頃まで盛んであったマルクス主義的な発展段階論的見方も、1956年の「ハンガリー事件」などを契機に、ソビエト社会主義に対する幻滅感と、マルクス主義理論の多元化などによって、次第に説得力を失い、少なくとも「日本の現在」を説明する「理論」としては魅力をもたなくなった。マルクス主義的立場からは「文化」がうまく説明できないし、繁栄する「前近代」的日本社会の位置づけも困難である。また「近代化」論もベトナム戦争でのアメリカの敗北以後行き詰ってしまうようになる。少なくとも、日本の「発展」という事実の前に、そういう従来の「理論」はかすんでしまったかのようにみえた。

1970年代後半の、新しい「日本文化論」には、それまでにみられた「西欧=近代」モデルへのためらいが、一見するとみられなくなる。

濱口恵俊(えしゅん)は、『「日本らしさ」の再発見』(1977)の中で、これまでの日本文化の研究は、いずれも「日本らしさ」について迫る場合の依拠すべき行動科学的公準を設定していなかったと批判した。行動科学的公準とは、濱口の述べるところでは、「日本人の社会的行為をもっとも基底的なところで支えている一般的行動原理としての公準」であり、これまでの研究ではそれが「未確定」であったという。

濱口のいう「公準」の「未確定」という意味は、従来「日本らしさ」としてとらえられてきた「特徴」が、「欧米」モデルを規準として、それに対比される消極的な性質を示すにすぎず、日本人には日本人独自の「自律性」がその行動様式にみられることを、「欧米」モデルとの対比という形でなく、提出する必要があるということである。

濱口は次のように述べる。

「日本人に生来的に自己主張が欠如しているのではなく、したがってまた自己のアイデンティティが確立していないのでもない。ただその自我の表出が、西洋人のように剥き出しのものとならず、社会的に高度に洗練された形態をとるにすぎないのである。伝統的に連帯的自律性を示す日本人が、あえて西洋的個人主義を理想としなくても、近代的な生活を営む上で何も障害となるものはない。」

日本社会の経済的発展、そこからくる「欧米」に並ぶ「大国」の位置づけを、いかにするか、という気持ちが等しくこの時期の「日本文化論」を支配している。

濱口恵俊によれば、西欧の「個人主義」に対して、日本は「集団主義」ではなく、「間人主義」なのだと論じ、日本人の特性を擁護する。濱口は、西欧の「個人主義」が「自己中心主義」「自己依拠主義」「対人関係の手段視」という特徴を持つのに対して、日本的な「間人主義」は「相互依存主義」「相互信頼主義」「対人関係の本質視」という特徴をもつと論じる。濱口は、「間人主義」が「個人主義」の陰画ではなく、それ自体自立した人間のあり方であると主張する。「間人主義」こそいわば日本人の行動様式の「公準」というべきことである。濱口は「外部」の示す日本理解の浅さを、さまざまな例証をあげて緻密化してゆくが、その基本的態度は「外部」からの「型づけ」でなく「内部」からの自律的で自発的そして積極的な「日本らしさ」の高い「独自性」の評価をするところにある。濱口の議論は、もはや「欧米モデル」を典範とすべきではないという姿勢があり、何といわれようが、日本の「近代化」の成功が「日本モデル」に即して行われたという強い意識が示されている。しかし、濱口の「間人主義」は、和辻哲郎が「間柄」に重要性について述べた説をより一層日本人の標準的行動として展開させたものであるが、濱口の「間人主義」も本来日本人特有の特徴ではなくて、日本人を含んだ「東洋人」にみられる特徴なのである。しかし、濱口の説では「東洋人」一般と「日本人」の区別がつけられておらず、いつの間にか「東洋人」が「日本人」に置き換えられてしまっている。そして「西洋人」が、常に対極にある存在とされている。