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青木保『日本文化論の変容』の視点からみる日本劣化のプロセス (3)

第3期「肯定的特殊性の認識」の時期  前期(1964~1976、昭和39年~51年)

                   後期(1977~1983、昭和52年~58年)

 60年安保をはさんで、経済成長と社会の安定が進み、日本は世界の大国としての道を踏み出すようになり、「日本文化論」にも「現実主義」が前面にでてくる。1960年代は世界的に経済成長の時代であったといわれているが、その中でも日本の経済成長は群を抜いて大きく、1964年から1973年にいたる10年間の実質経済成長率は10.2%を記録した。これは当時のアメリカ(4.0%)、イギリス(3.1%)、フランス(5.6%)、ドイツ(4.7%)と較べても抜群の成長率であった。

敗戦国のイメージは完全にぬぐい去られ、日本は再び世界の大国としての歩みを踏み始めた。政治的にも佐藤政権が安定した保守路線を進んでゆく。六十年安保の後で、「論壇」も急速に保守化していった。

この時期、「日本文化論」は左翼論壇の退潮の後に出来た空白を埋めるかのように、まさに中心に躍進するかのような盛況を見せる。経済的に成長した「豊かな社会」の到来と政治的安定とは、日本人の間にあらためて「文化とアイデンティティー」への強い要求を生み出した。

この青木保のいう「肯定的特殊性の認識」の時期は、日本の文化ナショナリズム、いいかえれば、日本の独自主義が強まった時期であり、次の時期のジャパンバッシングを呼び起こす時期として注目される。

「比較文明論」的な世界における日本の位置づけを第二期で肯定的に確認した後は、第三期で「日本システム」の優秀さの確認が起こった。世界の先進諸国と並ぶ産業化に成功した日本人の可能性は、その社会と文化のすばらしさを支えとしていると考えられた。

「日本文化論」は、その傾向を如実に反映する。1964年から1983年にいたる約20年間の「日本文化論」は「肯定的特殊性の認識」の時代に入り、なぜ日本人が世界の先進諸国と並ぶ産業化に成功し、「経済強国」となったのかが追求されるようになった。「日本文化論」あるいは「日本人論」という「議論の場」が賑やかに盛んになるのもこの時期であり、「大衆消費財」として消費されるようになるのも、この時期である。

「日本人とは何なのか」という問いが、繰り返し行われ、海外へ出かけ、海外で仕事をする日本人の数も飛躍的に増加し、「日本文化論」の要請は、国際社会に「働く」日本人にとっての「必要物」となる。

この20年間は、高度経済成長期に入った日本が、国の内外において「大国」にふさわしい国家と社会の建設を行わなくてはならないとの要望と批判にさらされる時期でもある。

青木保によれば、この20年間といっても、その間の時間の流れには、「前期」(1964~1976、昭和39年~51年)と「後期」(1977~1983、昭和52年~58年)を区別しなければならないような変化がみられるという。青木は、この時期の前半と後半とでは「日本文化論」の性格に変化がみられると論ずる。この変化には大きな意味がある。それは、「日本特殊論」の出現とも関連するからである。

日本の劣化を考えるうえで、この時期に現れた「日本文化論」を再吟味することは重要である。この時期の代表的な「日本文化論」を見ていくことにしよう。

社会人類学者中根千枝は、1964年に『日本的社会構造の発見」を発表するが、この論文は大きな反響をよんだ。日本人による 日本人の「集団主義」の原理の解明と、その「独自性」の指摘として、この論文は受けとられた。

加藤周一の西欧、梅棹忠夫中央アジア、と同じく中根の場合は、インド社会における調査経験が日本社会をとらえるときの、比較の観点を提供している。中根にとって日本と対極にある「社会構造」をもつのがインドであり、「集団主義」のあり方も「日本人の集団意識は常に場におかれており、インドでは反対に資格におかれている」のである。これが中根論文のキーポイントである。

 中根千枝の著作は新書版にまとめられ、『タテ社会の人間関係』(1967)として出版され、大ベストセラーになった。中根千枝の新書『タテ社会の人間関係』(1967)は ”The Japanese Society” (ペンギン文庫、英訳)と題して英訳され、日本社会は「タテ社会」であるとの説が「通説」になった。中根千枝の『タテ社会の人間関係』(1967)は英訳され、最も多くの読者を獲得した日本文化論となり、中根が展開したタテ社会論が、西洋から見た日本社会の典型になった。中根のいう「タテ社会」とは、

  1. 場の強調
  2. 集団による全面的参加
  3. 「タテ」組織による人間関係                   

中根千枝のいう日本人の集団や組織における「タテ」性は次のような特徴をもつ。

1 場の協調

 日本の社会集団のあり方は、中根によれば、場を強調するところに特色がある。個人は自分の資格よりも「場」を重視する。「ウチ」の会社、「ウチ」の大学といった言い回しにも表されているように、会社や大学は、自分にとっての客体としてではなく、主体として認識されている。中根は、日本の伝統的な「イエ」(家)の概念が「共同生活」や「経営体」という枠の設定によって構成される社会集団の一つであり、「全く血のつながりのない他人を後継者・相続者として」位置づけることも行われると述べ、日本の「イエ」では「場」が重要性をもつと指摘している。

2 集団による全面的参加

 「場」という枠によって形成される社会集団では、資格を異にするものがその成員として含まれることになる。そこで集団のまとまりを強める働きをするのが、「一つの枠内の成員に一体感をもたせる働きかけ」と「集団内の個々人を結ぶ内部組織を生成させて、それを強化させること」である。日本では、「われわれ」という集団意識が強調され、「ウチ」と「ソト」を区別する意識が強く、集団原理を支配する強い一体感が生まれやすい。従って、集団の成員による「全面的参加」が集団の意思決定に際して採用されることになる。それは逆に批判精神と論理性の欠如に通じる。

3 「タテ」組織による人間関係

 「場」と「集団の一体感」を重視する日本の社会集団は、その組織の性格を「親子」関係のような「タテ」性に求めることとなる(たとえば、親分-子分のような擬制的親子関係が締結されたりする)。中根によれば、「タテ」関係とは、「同列に置かれないA・Bを結ぶ関係である」。これに対し、「ヨコ」の関係は「兄弟姉妹」関係に相当し、これは同列と資格の関係をなす。日本的社会集団においては、「タテ」関係による集団内部の序列化が発達するが、逆に集団と集団の間には、並立の関係が生み出される。

中根の日本的社会集団の分析は、このような「社会構造」を抽出することによって、それまでのイデオロギー的な「集団主義」論や前近代的と決めつける「家族的構成」論を退け、「資格」の社会に対する「場」の社会、「ヨコ」の集団組織原理に対する「タテ」の原理の対照という形で、日本的な社会集団の姿を明らかにする。中根の示す社会集団のあり方は、たとえば、学術調査団の組織のあり方を日本と西欧の場合で比較して、前者が「みんなの調査団」であるのに対して後者はあくまでも「団長の調査団」であるという例を引いて、契約関係に基づく組織(西欧)と共同体関係(日本)のちがいを論ずることに示される。そこで中根は日本的集団において、リーダーとなる者は天才的であるよりも平凡なまとめ役の方がよく務まると指摘する。そこには「場」を媒介にする「人間平等主義」がみられると同時に、集団原理を支配する強い情緒的な一体感が見いだされるというのである。この一体感は逆に排外主義と「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という「批判精神の欠如」をもたらすともいう。それを「論理性の欠如」と中根は述べる。しかし、同時に、「タテ」の集団原理は、「日本の近代化に貢献」したと評価する。

中根千枝の「タテ社会」論は、日本社会の特質を示すものとして広く日本人一般に歓迎され、「日本的経営」の基礎理論として活用され、日本近代化の「成功」および日本企業の「集団主義」を肯定的に評価する研究として認められた。中根の論文には、全体として日本人の集団原理を支配する「タテ」性を肯定する傾向が窺われる。

日本人の「アイデンティティー」の確認にとって中根による「日本的社会構造の発見」は企業に働き集団に奉仕する「自分」の「発見」と結びついていた。

中根論文の出た1964年には、ルース・ベネディクトの指摘した「恥の文化」に関して、作田啓一による『「恥の文化」再考』が出ている。作田は、ベネディクトのいう「恥の文化」を「民族的個性をまず浮彫にしてみせるという点でやはりたいへん有効であるように思える」としつつも、ベネディクトは「恥の文化」の反面しかおおっていないと批判している。

作田啓一によれば、われわれが恥を感ずるのは、他人の拒否に出あった場合だけではない。われわれは、他人から一種特別の注視のもとにおかれた時に恥じる。ベネディクトが論じたのは、恥の一つのケース、「公恥」 (public shame) と呼ばれる側面にすぎない。「恥は現実の、あるいは想像上の他人の注視のもとで経験される。だが、すべての注視が恥の反応をひき起こすわけではない。われわれを恥じさせるのは一種特別の注視である。」

このように述べて、作田は「公恥」に対する「羞恥」の存在を指摘して、自己と他者の間に「志向のくいちがい」が生じるとき「羞恥」が起るといい、日本文化を「恥の文化」というのならば、「公恥への恐れよりも、一般にあらゆる注視にたいして警戒的であるという『志向のくい違い』への不安のほうに、日本人の特徴づけを求めるのが、むしろ適切であるように思われる。」と指摘している。

そして、柳田国男が、日本人は子供のときからはにかみがちであり、はにかみへの強い関心から「にらめっこ」という珍しい遊戯を発明したことを引いて、「羞恥」の重要性を指摘するのである。

作田が「羞恥」にとくに注目するのは、「恥の文化」の「肯定的」な性格を主張したいためである。

「羞恥」は、人を孤独な内面生活に引き込むが、「自己主張をぶつけ合う徒党と化す」よりも、もっと広い連帯を可能にする作用をはたす。自己の劣等な部分が八方から透視されている人間、集団という甲羅の一切が剥奪され、人間存在としての自己を主張しうる根拠を失った人間、そういう人間同士の連帯は、集団の砦を越えた連帯である。作田によれば、この連帯は、生産力の高まりによって競争の価値が低下し、階級・階層の壁がこわれるところまで進んだ未来社会において、人と人との結合の重要な一形式となるという。 

羞恥の共同体のマイナス面は、個人の創意工夫や自発性の表現を押さえつけることにある。作田啓一によれば、羞恥の共同体は、個人の創意工夫や自発性の表現を押さえつけるというマイナスの効果があるが、それと同時に、達成願望中心の集団的エゴイズムに対決するような集団のあり方を示す点でプラスの意味を持つという。日本の沈黙している大衆は、羞恥の共同体というものを構成している。作田によれば、この羞恥による共同体は、未来社会において人間どうしを結びつける重要な1形式になりうるのであり、「公恥」と「私恥」の両面をもつことで、日本社会の発展が進むと述べ、「恥の文化」の「肯定面」を強調し、日本における「はじらい」の文化を評価している。

 1964年に発表された中根千枝の「日本的社会構造の発見」と作田啓一の「恥の文化再考」により、「日本文化論」は新しい段階に入った。1965年には尾高邦雄の『日本の経営』が出る。尾高はこの本の中で、1958年に出たアメリカの文化人類学者ジェームズ・アベグレンらの『日本の経営』で指摘した「日本的経営」の「特徴」のとらえ方を批判した。アベグレンたちは、その特徴である「人事労務慣行」について検討し、「生涯雇用」「人柄と学歴を目安にする直接徴募」「入社前から決められている職員工員の区別」「業績よりも年功による処遇制度」「集団的意思決定と集団的責任の体制」「従業員福祉の温情的配慮」などの要素が、一つのシステムにまとめられ、企業や工場などの組織体を家族のような自然発生的な人間関係に擬して考えようとする価値理念となっていると指摘した。しかも、この「価値理念は「前近代的」で「封建的」と西洋人からみれば感じられるが、この「非合理的」な価値理念による「日本的経営」は輸入された西洋の生産技術と結びつくことによって、驚くべき効果を生み出したと論じた。

尾高は、こうした「集団主義」は、すでに江戸時代に形成された伝統的なものであり、西洋の「尺度」で「前近代的」とか「封建的」とか決めつけることは出来ないと反論して「日本的経営」を擁護した。「日本的経営」の伝統的で現代的な「肯定面」を「集団主義」の擁護の立場から論じており、またアベグレンたちのような「封建的」社会関係と西洋の生産技術の結合といった評価の行きすぎを批判した。

明らかに尾高の場合、ルース・ベネディクトのいう「集団主義」と「恥の文化」の企業集団に対する「効用」が意識されている。尾高邦雄は『日本の経営』(1965)において、日本の人事慣行の特徴を肯定的に評価したといえる。

1970年代には、精神分析や心理分析による「日本文化論」が出てくる。とくに、土居健郎『「甘え」の構造』(1971) と木村敏『人と人との間』(1972) は、精神分析と心理分析による「日本文化論」の提出としての特徴をもつ。

土居健郎の『「甘え」の構造』(1971)は、日本人の「育児」様式を観察し、「育児」と文化との関係、集団的「人格」への影響、日本独特の社会化の過程を分析した。日本人が生まれてから「社会化」の過程で経験する「母子」間の気持ちの上での緊密な結びつきを土台とした人間関係を分析すると、子供の母親への依存が核となっている。すなわち、日本人が「社会化」の過程で経験するのは、子供の母親への依存であるが、成人した後も、日本人は、家庭の内外で、母親依存と同じような情緒的安定を求め続けていく。土居によれば、日本の社会集団の中でも、「母子」関係の人間関係モデルは強く作用し、社会集団内の上下関係もこれになぞらえて形成され、目上と目下の関係は情緒的な感情を育む。

土居の「甘え」論は、日本人の「心性」と「人間関係」の基本に「甘え」があり、それは「受身的愛情希求」であり「依存性」であるが、その「甘えの心性」は「幼児的」なものである。しかし、「幼児的」であることは無価値ではなく、多くの文化的価値の原動力として働いてきたのであって、「義理も人情も甘えに深く根ざしている」のである。「甘え」は「母子」関係における子供のは母親依存に発するものであるが、それは「日本文化」の基調を形づくる。土居は日本人の性格の基本にある「甘え」は西洋人の「自立」と対比されるものであって、「甘え」は「日本人の心理に特異的なもの」と考えられると指摘する。土居は「甘え」の心理を非論理的で閉鎖的で私的と批判はするが、同時に、「無差別平等を尊び、きわめて寛容でさえある」と評価し、日本人の社会関係や集団にとっては、これが積極的な肯定的意味をもつと述べる。「甘え」という日本語自体が西欧語に同意語をもたないと主張することによって、土居は「日本文化」の性格に対してなされてきた否定的評価を逆転させ、日本文化の特殊性を認めかつ肯定的にとらえることになる。

土居健郎の立場は、フロイト学説のアメリ文化人類学の立場からの「読み換え」である。土居健郎の「甘え」論は、それまでに出ていた「日本文化論」の中でも、中根千枝の「タテ社会」論や作田啓一の「羞恥」論と共通するものをもっている。中根のいう「タテ性」は「甘え」の心理によって支えられ、作田のいう「私恥」も「他人に依存したい」という「甘え」の心理に基づくものと解釈されうるからである。

土居も「甘え」を全面的に「肯定」しているわけではなく、中根が行ったような日本人・日本社会の「論理性の欠如」や「閉鎖性」が「甘え」から生ずるものといって批判的観点を示しはするが、結局は、その独自性を西洋人の「自立」と対比させて、「甘え」が子供の成長にとって必要であることを説き、その積極的な役割を評価するのである。日本人の人間関係において「甘え」は潤滑油のような役割を果たしていて、成人間においても精神生活の健康を保つのに必要であるというのである。

木村敏の『人と人との間』(1972) によれば、西洋人における「自己」とは、「自分というものが、いついかなる事情においても、不変の一者としての自我でありつづける」ところに特徴があり、これはデカルトの命題に結びつく。「われ思う、ゆえにわれあり」という有名なことばを分析して、「コギト」(われ思う)が一人称の動詞で言われている点に注意を促す。「われあり」の根底として求められたはずのコギトが、すでに「われ思う」として、「われ」の存在を前提としている。このことから、木村は、西洋人にとって、「われ」の問題にならぬような思考などは、想像すらできないことであるというのである。

日本人が「自己」を意識していう「自分」ということばは、西洋人の場合と違い、明確な個人主体としての「自我」ではなく、恒常的に確立された主体ではない。日本人においては、「自己」は「自己自身の存立の根拠を自己自身の内部にもっていない」。西洋人の「セルフ」(自我)に対して、日本人はちがった形で「自己」を認識している。

木村は次のようにいう。「セルフとは、いかに他人との人間関係の中から育ってくるものであっても、結局のところは自己の独自性、自己の実質であって、しかもそれがセルフと言われるゆえんは、それが恒常的に同一性と連続性を保ち続けている点にある。これに対して日本語の『自分』は、本来自己を越えたなにものかについてのそのつどの『自己の分け前』なのであって、恒常的同一性をもった実質ないし属性ではない。」

「日本的なものの見方、考え方においては、自分が誰であるのか、相手が誰であるのかは、自分と相手との間の人間的関係の例から決定されてくる。個人が個人としてアイデンティファイされる前にまず人間関係がある。人と人との間ということがある。」また「日本では『私』が誰であり、『汝』が誰であるのかは、けっしてそれ自体で決定していることではなくて、そのつどの『私』と『汝』との間、つまり人と人との間のあり方によって、そのたびごとに改めて規定されなおされる。」

「セルフ」と「自分」との決定的なちがいは、ここにあると木村はいう。この木村の主張にはっきりと示されるのは「近代化」の絶対的前提としての「西欧」的個人主義の優位はとくに評価されておらず、日本人の「自分」の積極的評価が示唆されていることである。