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青木保『日本文化論の変容』の視点からみる日本劣化のプロセス (2)

 第2期 「歴史的相対性の認識」の時期(1955~1963)(昭和30年~38年)

 前回に引き続き、青木保『「日本文化論」の変容 ―― 戦後日本の文化とアイデンティティ ――』(1990年、中央公論社)を読み進めながら、日本劣化の過程を考えていく。今回の考察対象は、1955年(昭和30年)から1963年(昭和38年)にかけての時期に出版された「日本文化論」の内容の特質である。 

青木保が第二期「歴史的相対性の認識」の時期と呼ぶのは、1955年(昭和30年)から1963年(昭和38年)であり、その時期に現れた「日本文化論」には、ある内容的特質があるという。それが青木のいう「歴史的相対性の認識」ということである。

1950年代に入ると、戦争直後の混乱も徐々におさまってきて、朝鮮戦争の特需景気により、敗戦国日本は経済的な「離陸」をはじめる。アメリカの占領からの独立の後で、「もはや戦後ではない」と『経済白書』が宣言する1955年(昭和30年)を境として、比較文明論的な新しい「日本文化論」が出現する。

朝鮮戦争の特需景気が日本経済の追い風になった。それにつれて、「日本文化」の位置づけも、「否定」から、「否定」の見直しがなされるようになる。海外渡航が重い制限つきながら認められるようになって、ほとんど最初に日本を飛び出した人々による比較文明論的な「日本文化論」が出現してきた。とくに大きな影響を与えた論文は、加藤周一の『日本文化の雑種性』(1955年) と梅棹忠夫の『文明の生態史観』(1957年) であった。

加藤周一の『日本文化の雑種性』と梅棹忠夫の『文明の生態史観』というこの二つの「日本文化論」の特徴は、比較文明論的な世界における日本文化の位置づけであり、「近代化論」や「マルクス主義」のもつ閉鎖的な議論ではなく、日本を飛び出した人々がかなり自由な発想を展開することにより、論壇や知識人サークルを超えて、広く一般に迎えられ、その後の「日本文化論」の流れを変えた。独立の達成と経済的な回復によって、日本社会が落着きを取り戻しはじめたところへ、この二つの「日本文化論」の出現は日本人の精神的な「安定」をうながすような影響を与えたといえる。

加藤周一の『日本文化の雑種性』(1955)(昭和30年)は、いわゆる「雑種文化論」である。加藤の「雑種文化論」は、西欧対日本という比較軸の上で展開されており、「日本文化」の可能性を、西欧近代主義の追跡だけでなく、また「伝統回帰」のパターンに陥ることなく、探ろうとした。

加藤周一は戦後いち早く新しい西欧文学の紹介をし、同時に文芸批評や文化評論を、新しく西欧の合理主義や現代思想の手法を取り入れて行っており、数年の西欧生活体験の後、あらためて日本を発見しなおそうと試みた。加藤は「和洋折衷」的生活様式を肯定する。

加藤周一のいう「雑種文化」論とは、戦後いち早く渡欧した経験をもとに、西洋(とくにイギリスとフランス)との比較の上で、「英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本の文化は雑種の文化の典型ではないかということだ」とする議論である。もっとも英仏の文化もその源をさかのぼれば、ギリシア=ローマ以来の伝統を引き継いているわけで、外来の文化の影響を受けていないとは決していえない。しかし、その後の「文化的国民主義」の発達によって、「原理に関しては、英語の文化も、フランス語の文化も、純粋種であり、英語またはフランス語以外の何ものからも影響されていないように見える」。それに対し、日本文化は違うと加藤はいう。

日本的なものは他のアジア諸国とちがい、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにももとめなければならないと考えるようになった。伝統的な日本から西洋化した日本へ注意が移ってきたということでは決してない。そうではなくて日本文化の特徴は、その二つの要素が深いところで絡んでいて、どちらも抜き難いということ自体にあるのではないか。」

加藤周一『日本文化の雑種性』(1955)

この考え方は今日の日本に対しても、まだ有効性を保っているように思える。加藤は、西欧から帰ってきて、日本の自然と伝統の美しさに感激するとともに、その工業化の著しい発達に目をみはる。加藤周一が西欧から帰ってきて、神戸に上陸して見出した「日本」は、マルセイユシンガポールとも異なる、西洋そのものでも植民地西洋でもない、日本と西洋の「折衷」であって、この「二つの要素」からなる「雑種」以外のなにものでもない。

「雑種文化論」は、こうした加藤の日本「発見」の過程に生まれてきたものであり、加藤の「雑種文化論」には、日本近代を「西洋化」で見ることからも、「伝統への回帰」で論じることからも、「文化問題について国民主義的でなければならぬ」とすることからも自由でありたいという主張が込められている。「雑種ということばによい意味もわるい意味もあたえない」し、「純粋種に対しても同じである」と指摘し、「雑種とは根本が雑種だということ」だと述べる。中国をはじめとする大陸からの外来文化の影響は、もちろん深いところで日本文化を規定しているが、加藤がここで指摘するのは現代日本を考える場合、「政治・教育、その他の制度や組織の大部分も、西洋の型をとってつくられたもの」であって、そもそも「日本的伝統」が「純粋種」として成立するものではないということである。このことを日本人一般は生活上よく実感しており、「雑種をそのままの形でうけ入れ、結構おもしろく暮らす方法を工夫している」のであり、「和洋折衷」は日本人の生活の中では、うまく溶け合っている。しかるに、「知識人」はそれを自然に許容することができない。「知識人が文化問題に意識的であればあるほど」日本文化の「雑種性」を攻撃し、「純化」したいと思うようになる。「日本文化」の「純粋化」運動がそこで起こるが、これは「必然的に失敗の歴史」を繰り返すことになるという。

加藤はそこでつぎのように主張する。

「日本の文化は雑種であり、それはそれとしてまた結構である。」

加藤周一『日本文化の雑種性』(1955)

加藤によれば、「ほんとうの問題」は純粋文化に対して劣等感をいだくことではなく、「文化の雑種性そのものに積極的な意味をみとめ、それをそのまま活かしてゆくときにどういう可能性があるか」「文化の雑種性にはほんとうに積極的意味があるのか」を追求することであり、それは「むろんあると私は思う」、「徹底的な雑種性の積極的な意味」を問うことの値打ちは十分ある、というのである。

加藤は、「日本文化」を「純粋化」しようとする思想に釘を刺し、「日本文化」の「純粋化」運動は、「必然的に失敗の歴史」を繰り返すと述べ、「日本の文化は雑種であり、それはそれとしてまた結構である」と論じたのである。

加藤のような、日本の生んだきわめて純粋な「西洋型」の知識人が、日本文化の「雑種性」の積極的な意味を問い、その可能性を信じ、「日本人は西洋のことを研究するよりも日本のことを研究し、その研究から仕事をすすめていった方が学問芸術の上で生産的になるだろうと考えた」ことは大いに「意味」のあることであった。 

 1955年(昭和30年)は、日本経済が「高度成長」の段階に入った年といわれる。敗戦日本の「自信喪失」からの回復が、知識人の「日本回帰」という形でも現れてきたことは、加藤の日本文化の「純粋化」運動への批判と警告にもかかわらず、事実であった。しかし、青木保によれば、本当は、加藤のような「複眼的」な視点をもてる知識人は、学問芸術の上だけでなく、「日常性」へ深く参入する形での「西洋理解」をすることが必要であった、という。加藤論文の出た1955年(昭和30年)を境として「日本文化論」は、加藤の危惧するような「純粋化運動」へと「離陸」してゆくからである。

「雑種文化論」の影響は広範囲にわたった。「雑種文化論」は一般には次のように解釈された。

 すなわち、日本文化は、大陸からの影響と黒船以来の「欧米」化の波にさらされてきたが、そこに生まれた「雑種性」には積極的な意味がある。「英仏」など西欧の「純粋種」に劣等感をいだく必要はない。むしろその「雑種性」に「欧米」とはちがった可能性を見出すべきである。加藤の「雑種文化論」の意味は、このように解釈された。

加藤の主張は、当時の「日本人」を大いに勇気づけることとなった。それはこの時期の日本が何らかの形で「外部」から見た、日本人とその社会・文化の可能性を保証するものを欲しいと感じていたからであり、「雑種文化論」はその心理に応えるものであった。

「雑種文化論」が出てから二年後に、梅棹忠夫による『文明の生態史観序説』(1957)が現れた。梅棹忠夫は、西欧と日本の「文明」の「平行進化」を主張した。

 「高度な近代文明の日本における達成は、単なる西欧モデルの模倣ではなく、西欧と日本との歴史における「平行進化」と考えることができる。」

梅棹忠夫『文明の生態史観序説』(1957)

 梅棹忠夫は、世界を第一地域と第二地域に分け、日本と西欧を第一地域に分類し、中国・インド・ソ連(現在のロシア)などを第二地域に分類して、日本を先進資本主義国の一つとして位置づけ、その生活様式の特徴からみて他のアジア諸国など第二地域に入る国々とは異なると位置づけた。梅棹によれば、西欧と日本は、ユーラシア大陸の西端と東端にあり、その生態学的な位置と歴史的過程において、よく似た条件をもっていたため、平行進化が起こったのは必然の成り行きであった。日本の高度な近代文明の達成は、西欧の模倣によるものではなく、梅棹の「生態史観」からすれば、それは必然の成り行きであった。植物生態学では「一定の条件のもとでは、共同体の生活様式の発展が、一定の法則にしたがって進行する」。それと同じことが日本の文明と西欧の文明の間で生じたのだという。

梅棹忠夫の「生態史観」は「脱亜入欧」で通してきた日本を、理論的に擁護する日本文化論であると受け取ることもできる。加藤周一の『日本文化の雑種性』(昭和30年)が日本の「和洋折衷」を肯定する理論であるとすれば、梅棹忠夫の『文明の生態史観序説』(昭和32年)は日本の「脱亜入欧」を肯定する理論であったといえる

ここで注目すべきなのは、日本の現在への肯定的な評価を強く打ち出す梅棹の論調である。梅棹によれば、地理的歴史的な関係からいえば、日本は当然アジアの一員に違いないが、現代日本の示す特徴は明らかに「西欧」的であって、他のアジア諸国との「差」の方が大きい。日本は「極東」(Far East) ではなく、「極西」(Far West) である。梅棹によれば、日本は他のアジア諸国一般と較べて格段にすぐれた日本の「近代文明」を発達させたのであり、日本の現在は決して「否定」されてはならない。梅棹の『文明の生態史観』は、日本の現在の「肯定」と西欧との「平行進化」の指摘とによって、日本人とその「文明」の可能性を積極的に高揚する強いメッセージ性をもっていた。

加藤の「雑種文化論」と梅棹の「生態史観」は大変異なる外観を示しているが、実際には似た主調音を鳴らしている。この二人の論者はともに「日本文明」の積極的で肯定的な意味を「生活実感」においており、イデオロギーや思想に求めてはいない。「和洋折衷」でも「脱亜入欧」でも何でも、日本の現在が享受する「文明」生活の「よさ」を評価するのである。 

加藤周一梅棹忠夫には、川島武宣丸山真男のような、日本の「後進性」への「否定」はみられない。加藤も梅棹も、近代西欧との相対的な比較の視点を提示しており「西欧モデル」の模倣や追従という観点を斥けている。

この時期には、敗戦日本の「自信喪失」からの回復がみられ、1955年(昭和30年)の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と述べるに至って、「伝統回帰」のパターンに陥ったり、自信喪失に陥ったりすることなく、日本人の可能性を世界史のなかに位置づけ、積極的に評価しようとする試みが現れるようになった。

しかし、興味深いことに、この第2期の時期には「外部」の眼も日本を同じようにみていた。たとえば、この時期には、アメリカの研究者、ロバート・ベラーもまた、『日本近代化と宗教倫理』(1956)で、日本の「近代」を西欧の近代と比較して、そこに一種の「平行現象」を認めている。

ベラーは、明治以後の近代国家建設と産業化に日本が成功した原因を、「日本宗教」に求め、石田梅岩石門心学徳川時代プロテスタンティズムに見立て、それを産業化の要因とみなした。ベラーは、武士階級と産業化の関係を追及して、「徳川時代の強固な政治体系と支配的な政治価値は、明らかに、産業社会の勃興に適していた」と指摘した。ベラーの『日本近代化と宗教倫理』には、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』との類比がある。ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の適合性を指摘したのと同様に、ベラーは、明治以後の近代国家建設と産業化に日本が成功した原因を、徳川時代における「宗教倫理」の分析から導き出そうと試みたのである

ベラーによれば、非西欧社会で産業化を遂行する場合、西欧社会が時間をかけて資本と技術の蓄積を行って産業主義が発達したという歴史的背景を欠いているために、政府支配による急激な資本の準備が必要とされたから、政府だけが産業主義を発達させることが出来るという上からの産業化にしか可能性がないという。ベラーは、そのような状況にあっては、政治および政治価値の強さが決定的な要因となると指摘して、次のように述べる。

すべての主要な非西欧社会の中で、日本が、強力な政治体制と中心的な政治価値をもっている点で、特異な存在として目立っている。そして、私の意見では、とりわけこの特質によって、日本が他と異なって産業化を受けいれたことが分かる。

ロバート・ベラー『日本近代化と宗教倫理』1956年  

ベラーは、他のアジア諸国と異なり、「日本宗教」にはきわめて「合理的」な面があり、ヒンドゥー教儒教またイスラーム教のもつ「合理性」とはちがう「産業化」を邪魔しない、社会変化を妨げない性格が「日本宗教」にはあると述べる。

青木保によれば、ベラーの『日本近代化と宗教倫理』(1956) は、そのメッセージが加藤周一梅棹忠夫の所論とも重なる日本の可能性を積極的に評価するという点と、「西欧」との「歴史的相対性」を示すものとして、まさに同じこの「歴史的相対性の認識」の時期を代表する日本文化論であると考えられるという。

また日本と西欧の歴史的な類似性を強調する視点としては、E. O. ライシャワーによる「封建制」の西欧と日本の比較研究も同じような「歴史的相対性の認識」を示している。(E. O. ライシャワー『ザ・ジャパニーズ』文藝春秋社、1979年)

こうした「外部」の眼による世界における日本の位置づけも、この時期には、肯定的な日本評価と受けとることの出来るものが増えてきた。

「雑種文化」であるにせよ、西欧との「平行進化」であるにせよ、日本人の「自己確認」にとっては、敗戦後の屈辱と劣位意識、誤れる過去の認識、封建遺制と前近代性といった「否定的」認識から、ようやく日本の「独自性」の主張、それも先進欧米諸国との類似性を強調する認識へと変貌しつつあったのであり、その認識は、日本人の「自信回復」に大きく役立ったといえる

この時期の特徴の一つは、アーノルド・トインビーの著作の紹介や翻訳が出て、「比較文明論」への関心が高まったことである。梅棹忠夫の『文明の生態史観』にもトインビーの影響が見られる。このトインビーへの関心は、一系的進化論や発展段階論、近代主義の示す「西欧中心主義」に対する懐疑や反撥の出現と呼応していた。

「日本文化」が、加藤周一のいうように「雑種文化」であり「和洋折衷」であるにせよ、また梅棹忠夫の示唆するような「平行進化」であり「脱亜入欧」であるにせよ、『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言した昭和30年頃から、「日本文化」を欧米文化と同等であると考える「日本文化論」が出現してきたことは注目に値する。

今日の視点からすると、梅棹の『文明の生態史観』は荒唐無稽な噴飯ものの議論にも見えるが、それまでの「日本文化」の後進性を否定する議論に対して、「日本文化」を欧米と同等に位置づける別の視点を提示したことは、日本人に自信を取り戻させる効果を及ぼすものであったといえる。

しかし、今日の視点から見ると、加藤周一の『雑種文化論』のほうが、文化の「純粋化」運動にたいする反論として、いまもなお重要な内容を含んでいるように見える。

いずれにせよ、加藤周一の『日本文化の雑種性』と梅棹忠夫の『文明の生態史観』は、昭和30年代の初頭にあって、「日本文化の特殊性に対する否定的認識」を排して、「比較文明論」による相対性の視点を提示してみせた。それが次の時代、「肯定的特殊性の認識」の時期につながっていくのであり、とくに梅棹の「生態史観」は、いわば比較文明論の仮面を被ったナショナリズムの顕現という一面もあるが、日本の劣化がとくに顕著にその論調から窺われることはない。敗戦後、日本文化の特殊性を否定する見解が主流であった時期から、時代は徐々に日本人の「自信回復」と「日本回帰」を示す雰囲気へと変わっていく。

本当に日本人の劣化を考えねばならなくなるのは、次の第三期の時期からである。