Dances with Seals

いろいろなことを書いていきたいと思います

青木保『日本文化論の変容』の視点から見る日本劣化のプロセス(5)

1970年代は、「日本文化論」が大衆の流行語にさえなるほど日本に出回った時代である。「タテ社会」「甘えの構造」「間人主義」などのことばがマスコミをにぎわし、日本人や日本文化の「独自性」と「卓越性」を示すものとして使用された。その一方で、外国からは、日本人は「エコノミック・アニマル」とか「働き蜂」などと呼ばれるようになった。

1979年には、村上泰亮公文俊平佐藤誠三郎の共同研究である『文明としてのイエ社会』が出版され、同じ1979年にはアメリカでもエズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出版された。

『文明としてのイエ社会』(1979)は、日本近代化の特性を解明する共同研究であるが、この著書の基本には、やはりルース・ベネディクトの提出した日本人の「集団主義」と「恥の文化」が大きなテーマとして存在している。『文明としてのイエ社会』は、「この本では『個人主義(individualism) とその対概念としての集団主義 (collectivism) の問題を第一のテーマとする」と述べる。「ただし、『個人主義集団主義』という概念自体、実は満足すべきではない」と言い、それは「この対比が既に欧米型近代化にとらわれた考え方であり表現」であるからだとする。そして、「集団主義」という言い方についても、「われわれはむしろ『間柄主義』という表現を使いたい」という。この「間柄主義」は、木村敏や濱口恵俊のいう「間人主義」に相応する。「たしかに近代化・産業化の始動にあたって、個人主義的な欧米の文化が決定的な役割を果たし、最近数百年の人類史の主要な発展に寄与したことは事実である。しかし、『つぎの先進段階はそれまでのものとは別の系統からはじまる』とすれば、今後の発展の可能性を探るにあたって、欧米型の個人主義的文化にとらわれることなく、さまざまの他の可能性をも考慮しなければならない」ということである。

近代化そして産業化の再検討をするに当たって、『文明としてのイエ社会』の著者たちは、「人類史の視点」「産業社会の視点」「近代化日本の視点」という三つの面から追及する。そして、「近代化とは産業社会の形成過程をさす」といい、「産業化に不可分な社会システム」として、1.高度の配分システム、2.政治的統一と近代的官僚制、3.教育と学術の制度化、4.企業体、5.職場と家庭の分離をあげ、「産業化に必要な価値観」として、「個人主義」の価値観は一般的には不可欠ではない、と論じ、ある種の「集団主義」は「個人主義」よりもむしろ適合的であると結論づける。著者たちは、こうあした「産業化」の帰結として、1.個別化、2.国民国家化、3.即自化、が起こると述べる。

村上泰亮公文俊平佐藤誠三郎によれば、「近代化=産業化」を日本が達成できたのは、「イエ型組織原則」の柔軟な適応力によるものであり、とくに企業などの「中間集団」レベルにおいては、「イエ型組織原則」が有効に働いたという。著者たちは、近代化・産業化の始動にあたって、個人主義的な欧米の文化が決定的な役割を果たしたことは事実だが、しかし次の先進段階に進むには、「間柄主義」を完全に否定することはできないと主張する。村上・公文・佐藤らは、ある種の集団主義 (collectivism) は「個人主義(individualism) よりも近代化に適合的であるとする。『文明としてのイエ社会』は、律令制国家出現以後の「発展」を、「日本史の二つのサイクル」として、「ウジ社会」と「イエ社会」という社会タイプに分類し、「ウジ社会」は「律令制」で頂点に達し、荘園・公領化体制の消滅とともに姿を消すが、その後、11世紀頃から「イエ社会」が日本社会の中核となって展開した。「ウジ社会」は、中国の高度な農耕文明で育まれ、その後日本へ移入された社会システムであり、「イエ社会」は、辺境の農耕文明型発展の日本版であると捉えた。

しかし、この壮大な「日本近代化」論には、1970年代に明らかとなった、経済の高度成長による「近代化大国日本」への達成度に含まれる「欧米」先進国以上の「発展」可能性を認めるところから展望する視点が色濃く出ている。その成功の「自信」の上に立って、「日本近代化」が評価されており、「集団主義」と「近代化ー産業化」が両立するだけでなく、今後の世界においてはむしろ優位に働くと説くような論旨の展開になってゆく。

著者たちによれば、今後の社会発展にとって必要な新しいシステムないし方式は、「純粋に個人主義的でもなく純粋に集団主義的でもないある種の複合型」とならざるをえない。そのような「複合型」に進むに当たって、「日本社会は欧米諸社会よりもあるいは有利な立場にあるかもしれない」と指摘するのである。

このように、村上泰亮公文俊平佐藤誠三郎の『文明としてのイエ社会』は、、近代日本の建設を西欧化ー近代化でない、別の形での一つの達成として「日本文化」の「肯定的特殊性」の総括を行っているとみることができる。日本に「特有化」した「イエ型組織原理」とそれに従属した「ムラ型」社会関係が、「集団ー間柄主義」下において、この達成をなしとげたのであり、それは大きな可能性を秘めている。川島武宣の「日本社会の家族的構成」が示した「反民主的」「反近代的」な日本社会の位置づけは、ここに逆転して、今後の社会進展のための「より大きい」可能性をもつ「社会原理」として評価されることになった。

エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979)は、日本の「成功」の鍵を解き明かして、アメリカの読者の参考にするという目的で企てられた「日本文化論」であり、日本の制度のすぐれた点を明らかにしようと試みている。ヴォーゲルによれば、日本の制度がアメリカにとって鏡となると考えられる点は四つある。

1.日本がすべての制度を合理的判断に基づいて築きあげたという特徴は、西欧諸国にはみられないものである。日本は過去百十年間に二度も大規模な制度の見直し、改革を行い、欧米の諸制度の良い面を取り入れて合理化してきたのに反し、アメリカでは二百年前とあまり変わらない制度が存続している。

2.民主主義先進工業諸国の中で、日本は唯一の非西欧国であるという特徴をもつ。日本は、自らの伝統を基礎として、そのうえで創造性を発揮し、さまざまなヨーロッパの制度をまったく新しい形で採用した。これは日本独自の発展であり、他のどこの国とも異なるアメリカにとってもっとも対照的な国である。

3.今日のアメリカの政治・経済・通商などの困難な問題に対して、日本はずっと以前から取り組んできた。人口密度から自然資源や国際環境などアメリカと著しく環境を異にする日本の問題解決の仕方とその成功は、アメリカにとっても大きな参考となる。

4.日本の諸制度は大成功をおさめている。経済だけでなく、政治・社会面においても、日本の制度はきわめてうまく機能している。

エズラ・ヴォーゲルが「ナンバーワンとしての日本」のすぐれた面として挙げているのは、そのほとんどがこの時代の「日本文化論」で肯定的に評価されてきた事柄である。そこでは、「集団主義」と「恥の文化」の肯定的で積極的な作用が、教育効果、コンセンサス(合意)の作り方、政府の実力主義と民間の自主性、総合利益と公正な分配を支える集団力学、企業における社員の一体感とグループ精神、防犯システムの効用などを例に挙げて論じられている。

 ヴォーゲルの論点は、それまでの「日本文化論」が「欧米」モデルを基準として、欧米モデルとの対比によって「自己認識」を行ってきたことの「裏返し」とみることもできる。いわば、エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979)は、この時代の「肯定的特殊性の認識」を、アメリカからみて「保証」するような役割を果たした。1970年代末の時点において、ヴォーゲルの「日本論」は、日本人の多くが待ち望んでいた「ナンバー・ワンとしての日本」というアメリカ側からの託宣であった。

エズラ・ヴォーゲルは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の中で、日本における「集団主義」と「恥の文化」の作用を肯定的に評価した。ヴォーゲルは、日本は自らの伝統を基礎として、その上で創造性を発揮し、ヨーロッパのさまざまな制度を全く新しい形で、しかも合理的判断に基づいて採用したと論じ、「日本的経営」を賛美した。

ヴォーゲルの著作は圧倒的に日本人に迎えられ、アメリカ社会よりも優れた「社会性」を示す日本という点が強調された。「日本的経営」は「イエ原則を機能的に純化したもの」とされるが、「階級制の滲出化」と「根まわし型満場一致」という集団運営上の工夫を特徴としている。

 戦後に現れた日本文化論の第3期には、「日本的経営」の賛美が頂点に達し、「集団主義」と「恥の文化」というルース・ベネディクト以来の「日本文化論」の二大テーマが「肯定的」に評価された。第3期の「日本文化論」では概ね、日本が成功した理由が説明され、近代化した大国である日本が欧米先進国以上の発展可能性を秘めているとする「ナルシシズム」が見られた。第三期には、「日本文化の特殊性」を肯定的に評価し、日本文化や日本社会の優秀性を謳歌する「日本文化論」が多く現れ、「日本文化論」の黄金時代ともいうべき状況が生まれた。

 

青木保『日本文化論の変容』の視点から見る日本劣化のプロセス(4)

青木保のいう第三期「肯定的特殊性の認識」の時期は前期と後期に分かれる。

前期は1964年から1976年まで、後期は1977年から1983年までである。

「肯定的特殊性の認識」の時期の前期に書かれた「日本文化論」のうち、前回紹介した中根千枝「日本的社会構造の発見」(1964)『タテ社会の人間関係』(1967)、作田啓一「恥の文化再考」(1964年)、尾高邦雄『日本の経営』(1965年)、土居健郎『甘えの構造』(1971年)、木村敏『人と人との間――精神病理学的日本論』は日本文化の特殊性を肯定的に評価する視点が見られたが、ナショナリズムを明確に前面に出しているというわけではない。

1964年は、新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された年である。この1964年から「肯定的特殊性の認識」が「日本文化論」の前面に出てくるようになり、それにつれて、日本国内も佐藤政権が成立して政治的対立よりも保守的安定の方向が定まってくる。1968年には「プラハの春」がソビエト軍によって破壊され、フランスにはじまる大学紛争は日本でも激しく展開されるが、一般社会まで及ぶことはなかった。

そうした状況の中で、1968年に三島由紀夫の「文化防衛論」が出る。

三島由紀夫は、『文化防衛論』(1968)の中で、当時の日本の「文化主義」を批判した。三島のいう「文化主義」とは、文化を、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする傾向である。そこでは、文化とは、何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものになる。それは戦後日本が米国の占領政策と文化官僚の事なかれ主義によって、「文化を生む生命の源泉とその連続性を、種々の法律や政策でダムに押し込め、これを発電や灌漑にだけ有効なものとし、その反乱を封じることだった。それは「市民道徳の形式の有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧することだった」と三島はいって、「福祉価値と文化を短絡する思考は、大衆のヒューマニズムに基づく、見せかけの文化尊重主義になった」と批判する。三島によれば、「戦後民主主義」と「大学社会」の中で、文化は「博物館的な死んだ文化」と「天下泰平の死んだ生活」の二つしかなくなり、しかもその二つは完全に化合している。

文化を「物置」としてとらえようとする政府と野党と大衆の「文化主義」に対し、三島が展開する批判は、日本の文化は「一つの形」であり、「国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体」であって、芸術作品だけでなく「行動及び行動様式を包含する」ものであることを基点としている。

三島によれば日本では、「ものとしての文化への固執が比較的希薄であり、消失を本質とする行動様式への文化形式の移管が特色的」である。日本文化は本来オリジナルとコピーの弁別をもたない。それは伊勢神宮の造営にみられるような「オリジナルとコピーの間の決定的な価値の落差が生じない」ものである。

こうした「消失」を旨とする文化概念は、天皇のあり方にみられ、「各代の天皇が、まさに天皇その方であって、天照大神とオリジナルとコピーの関係にはないというところの天皇制の特質と見合っている」と三島は述べる。

全体として三島は、「戦後体制」の見せかけの「文化主義」にひそむ欺瞞を糾弾し、文化の「全体性」の回復を主張する。その「全体性」には「時間的連続性」と「空間的連続性」が含まれ、前者は「伝統と美と趣味」を保証し、後者は「生の多様性」を保障する。両者の合体するところに成立するのが、「文化共同体理念」である。この理念だけがイデオロギーに対抗しうるものであり、「文化共同体理念」には「絶対的倫理的価値」と文化の「無差別的包括性」をもつことが要求される。そこで三島は「天皇制」を「文化概念」として提出するのである。

三島は、日本文化の「形」にこだわり、「天皇制」を「自由と優雅という立体的構造」をもち、「みやび」の源泉であるところの、「文化の全体性」を体現するものであると主張した。逆に「自由と責任という平面的な対立概念」の中にはそれは存在しないといって、「近代主義」や「マルクス主義」を批判するのである。

1960年代に入って、イデオロギーから現実主義への「思想的転換」と「社会変化」が、高度経済成長の中での「必然」としてみられるようになってゆくが、三島はこうして「肥大」してゆく日本文化の変化を本質的に見抜いていた。

「文化概念」としての「天皇制」を日本文化の基本と仰ぐ三島由紀夫の「文化絶対主義」の主張は、1960年代末から1970年代にかけての「肯定的特殊性の認識」の深まりを示すものとして捉えられる。三島自身の極端に美学的な、また日本文化の「形」への求心的な特殊性の主張には、鋭い左右の「見せかけ」の「主義」批判と「物質主義」批判が含まれているし、その立論には現状への激しい糾弾が含まれているのだが、このような論点も加えながら「日本文化論」の大勢は「肯定的特殊性の認識」をはっきり主張するようになるのである。注意すべき点は、三島の議論には強い「反相対主義」的性格がみられる点である。「天皇制」を日本文化の基本と仰ぐ「絶対主義」の主張がそこにはある。「言論の自由と代議制民主主義との折れ合い」を「言論の自由が本質的に、文化の全体性のうち、その垂直面、すなわち時間的連続性には関わらないから」だとして否定するところに、「文化防衛論」の強調する論点が示されている。

1970年代には、「日本文化」の「肯定的特殊性」を認める「日本文化論」は、一段とその「肯定性」を深めてゆく。この頃には日本経済の高度成長は世界で抜きん出ており、「オイルショック」を切り抜けて、日本の地位は際立って飛躍していった。

公文俊平が指摘するように、1970年代の日本研究は、それ以前の研究にみられた「西欧近代社会」を潤拠点にすることを超えて、「近代化=西欧化」という視点を離れたところに、新たな領域の開拓を試みるようになった。1970年代には、いっそう強く「日本人とは何なのか、日本人の可能性は」という「アイデンディティ」を問う試みがなされるようになる。

「近代化ー民主化」の「先進モデル」としての「欧米」に対して、日本の「独自性」を追求する傾向は、一層強化されていった。

それとともに、1955年頃まで盛んであったマルクス主義的な発展段階論的見方も、1956年の「ハンガリー事件」などを契機に、ソビエト社会主義に対する幻滅感と、マルクス主義理論の多元化などによって、次第に説得力を失い、少なくとも「日本の現在」を説明する「理論」としては魅力をもたなくなった。マルクス主義的立場からは「文化」がうまく説明できないし、繁栄する「前近代」的日本社会の位置づけも困難である。また「近代化」論もベトナム戦争でのアメリカの敗北以後行き詰ってしまうようになる。少なくとも、日本の「発展」という事実の前に、そういう従来の「理論」はかすんでしまったかのようにみえた。

1970年代後半の、新しい「日本文化論」には、それまでにみられた「西欧=近代」モデルへのためらいが、一見するとみられなくなる。

濱口恵俊(えしゅん)は、『「日本らしさ」の再発見』(1977)の中で、これまでの日本文化の研究は、いずれも「日本らしさ」について迫る場合の依拠すべき行動科学的公準を設定していなかったと批判した。行動科学的公準とは、濱口の述べるところでは、「日本人の社会的行為をもっとも基底的なところで支えている一般的行動原理としての公準」であり、これまでの研究ではそれが「未確定」であったという。

濱口のいう「公準」の「未確定」という意味は、従来「日本らしさ」としてとらえられてきた「特徴」が、「欧米」モデルを規準として、それに対比される消極的な性質を示すにすぎず、日本人には日本人独自の「自律性」がその行動様式にみられることを、「欧米」モデルとの対比という形でなく、提出する必要があるということである。

濱口は次のように述べる。

「日本人に生来的に自己主張が欠如しているのではなく、したがってまた自己のアイデンティティが確立していないのでもない。ただその自我の表出が、西洋人のように剥き出しのものとならず、社会的に高度に洗練された形態をとるにすぎないのである。伝統的に連帯的自律性を示す日本人が、あえて西洋的個人主義を理想としなくても、近代的な生活を営む上で何も障害となるものはない。」

日本社会の経済的発展、そこからくる「欧米」に並ぶ「大国」の位置づけを、いかにするか、という気持ちが等しくこの時期の「日本文化論」を支配している。

濱口恵俊によれば、西欧の「個人主義」に対して、日本は「集団主義」ではなく、「間人主義」なのだと論じ、日本人の特性を擁護する。濱口は、西欧の「個人主義」が「自己中心主義」「自己依拠主義」「対人関係の手段視」という特徴を持つのに対して、日本的な「間人主義」は「相互依存主義」「相互信頼主義」「対人関係の本質視」という特徴をもつと論じる。濱口は、「間人主義」が「個人主義」の陰画ではなく、それ自体自立した人間のあり方であると主張する。「間人主義」こそいわば日本人の行動様式の「公準」というべきことである。濱口は「外部」の示す日本理解の浅さを、さまざまな例証をあげて緻密化してゆくが、その基本的態度は「外部」からの「型づけ」でなく「内部」からの自律的で自発的そして積極的な「日本らしさ」の高い「独自性」の評価をするところにある。濱口の議論は、もはや「欧米モデル」を典範とすべきではないという姿勢があり、何といわれようが、日本の「近代化」の成功が「日本モデル」に即して行われたという強い意識が示されている。しかし、濱口の「間人主義」は、和辻哲郎が「間柄」に重要性について述べた説をより一層日本人の標準的行動として展開させたものであるが、濱口の「間人主義」も本来日本人特有の特徴ではなくて、日本人を含んだ「東洋人」にみられる特徴なのである。しかし、濱口の説では「東洋人」一般と「日本人」の区別がつけられておらず、いつの間にか「東洋人」が「日本人」に置き換えられてしまっている。そして「西洋人」が、常に対極にある存在とされている。

 

青木保『日本文化論の変容』の視点からみる日本劣化のプロセス (3)

第3期「肯定的特殊性の認識」の時期  前期(1964~1976、昭和39年~51年)

                   後期(1977~1983、昭和52年~58年)

 60年安保をはさんで、経済成長と社会の安定が進み、日本は世界の大国としての道を踏み出すようになり、「日本文化論」にも「現実主義」が前面にでてくる。1960年代は世界的に経済成長の時代であったといわれているが、その中でも日本の経済成長は群を抜いて大きく、1964年から1973年にいたる10年間の実質経済成長率は10.2%を記録した。これは当時のアメリカ(4.0%)、イギリス(3.1%)、フランス(5.6%)、ドイツ(4.7%)と較べても抜群の成長率であった。

敗戦国のイメージは完全にぬぐい去られ、日本は再び世界の大国としての歩みを踏み始めた。政治的にも佐藤政権が安定した保守路線を進んでゆく。六十年安保の後で、「論壇」も急速に保守化していった。

この時期、「日本文化論」は左翼論壇の退潮の後に出来た空白を埋めるかのように、まさに中心に躍進するかのような盛況を見せる。経済的に成長した「豊かな社会」の到来と政治的安定とは、日本人の間にあらためて「文化とアイデンティティー」への強い要求を生み出した。

この青木保のいう「肯定的特殊性の認識」の時期は、日本の文化ナショナリズム、いいかえれば、日本の独自主義が強まった時期であり、次の時期のジャパンバッシングを呼び起こす時期として注目される。

「比較文明論」的な世界における日本の位置づけを第二期で肯定的に確認した後は、第三期で「日本システム」の優秀さの確認が起こった。世界の先進諸国と並ぶ産業化に成功した日本人の可能性は、その社会と文化のすばらしさを支えとしていると考えられた。

「日本文化論」は、その傾向を如実に反映する。1964年から1983年にいたる約20年間の「日本文化論」は「肯定的特殊性の認識」の時代に入り、なぜ日本人が世界の先進諸国と並ぶ産業化に成功し、「経済強国」となったのかが追求されるようになった。「日本文化論」あるいは「日本人論」という「議論の場」が賑やかに盛んになるのもこの時期であり、「大衆消費財」として消費されるようになるのも、この時期である。

「日本人とは何なのか」という問いが、繰り返し行われ、海外へ出かけ、海外で仕事をする日本人の数も飛躍的に増加し、「日本文化論」の要請は、国際社会に「働く」日本人にとっての「必要物」となる。

この20年間は、高度経済成長期に入った日本が、国の内外において「大国」にふさわしい国家と社会の建設を行わなくてはならないとの要望と批判にさらされる時期でもある。

青木保によれば、この20年間といっても、その間の時間の流れには、「前期」(1964~1976、昭和39年~51年)と「後期」(1977~1983、昭和52年~58年)を区別しなければならないような変化がみられるという。青木は、この時期の前半と後半とでは「日本文化論」の性格に変化がみられると論ずる。この変化には大きな意味がある。それは、「日本特殊論」の出現とも関連するからである。

日本の劣化を考えるうえで、この時期に現れた「日本文化論」を再吟味することは重要である。この時期の代表的な「日本文化論」を見ていくことにしよう。

社会人類学者中根千枝は、1964年に『日本的社会構造の発見」を発表するが、この論文は大きな反響をよんだ。日本人による 日本人の「集団主義」の原理の解明と、その「独自性」の指摘として、この論文は受けとられた。

加藤周一の西欧、梅棹忠夫中央アジア、と同じく中根の場合は、インド社会における調査経験が日本社会をとらえるときの、比較の観点を提供している。中根にとって日本と対極にある「社会構造」をもつのがインドであり、「集団主義」のあり方も「日本人の集団意識は常に場におかれており、インドでは反対に資格におかれている」のである。これが中根論文のキーポイントである。

 中根千枝の著作は新書版にまとめられ、『タテ社会の人間関係』(1967)として出版され、大ベストセラーになった。中根千枝の新書『タテ社会の人間関係』(1967)は ”The Japanese Society” (ペンギン文庫、英訳)と題して英訳され、日本社会は「タテ社会」であるとの説が「通説」になった。中根千枝の『タテ社会の人間関係』(1967)は英訳され、最も多くの読者を獲得した日本文化論となり、中根が展開したタテ社会論が、西洋から見た日本社会の典型になった。中根のいう「タテ社会」とは、

  1. 場の強調
  2. 集団による全面的参加
  3. 「タテ」組織による人間関係                   

中根千枝のいう日本人の集団や組織における「タテ」性は次のような特徴をもつ。

1 場の協調

 日本の社会集団のあり方は、中根によれば、場を強調するところに特色がある。個人は自分の資格よりも「場」を重視する。「ウチ」の会社、「ウチ」の大学といった言い回しにも表されているように、会社や大学は、自分にとっての客体としてではなく、主体として認識されている。中根は、日本の伝統的な「イエ」(家)の概念が「共同生活」や「経営体」という枠の設定によって構成される社会集団の一つであり、「全く血のつながりのない他人を後継者・相続者として」位置づけることも行われると述べ、日本の「イエ」では「場」が重要性をもつと指摘している。

2 集団による全面的参加

 「場」という枠によって形成される社会集団では、資格を異にするものがその成員として含まれることになる。そこで集団のまとまりを強める働きをするのが、「一つの枠内の成員に一体感をもたせる働きかけ」と「集団内の個々人を結ぶ内部組織を生成させて、それを強化させること」である。日本では、「われわれ」という集団意識が強調され、「ウチ」と「ソト」を区別する意識が強く、集団原理を支配する強い一体感が生まれやすい。従って、集団の成員による「全面的参加」が集団の意思決定に際して採用されることになる。それは逆に批判精神と論理性の欠如に通じる。

3 「タテ」組織による人間関係

 「場」と「集団の一体感」を重視する日本の社会集団は、その組織の性格を「親子」関係のような「タテ」性に求めることとなる(たとえば、親分-子分のような擬制的親子関係が締結されたりする)。中根によれば、「タテ」関係とは、「同列に置かれないA・Bを結ぶ関係である」。これに対し、「ヨコ」の関係は「兄弟姉妹」関係に相当し、これは同列と資格の関係をなす。日本的社会集団においては、「タテ」関係による集団内部の序列化が発達するが、逆に集団と集団の間には、並立の関係が生み出される。

中根の日本的社会集団の分析は、このような「社会構造」を抽出することによって、それまでのイデオロギー的な「集団主義」論や前近代的と決めつける「家族的構成」論を退け、「資格」の社会に対する「場」の社会、「ヨコ」の集団組織原理に対する「タテ」の原理の対照という形で、日本的な社会集団の姿を明らかにする。中根の示す社会集団のあり方は、たとえば、学術調査団の組織のあり方を日本と西欧の場合で比較して、前者が「みんなの調査団」であるのに対して後者はあくまでも「団長の調査団」であるという例を引いて、契約関係に基づく組織(西欧)と共同体関係(日本)のちがいを論ずることに示される。そこで中根は日本的集団において、リーダーとなる者は天才的であるよりも平凡なまとめ役の方がよく務まると指摘する。そこには「場」を媒介にする「人間平等主義」がみられると同時に、集団原理を支配する強い情緒的な一体感が見いだされるというのである。この一体感は逆に排外主義と「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という「批判精神の欠如」をもたらすともいう。それを「論理性の欠如」と中根は述べる。しかし、同時に、「タテ」の集団原理は、「日本の近代化に貢献」したと評価する。

中根千枝の「タテ社会」論は、日本社会の特質を示すものとして広く日本人一般に歓迎され、「日本的経営」の基礎理論として活用され、日本近代化の「成功」および日本企業の「集団主義」を肯定的に評価する研究として認められた。中根の論文には、全体として日本人の集団原理を支配する「タテ」性を肯定する傾向が窺われる。

日本人の「アイデンティティー」の確認にとって中根による「日本的社会構造の発見」は企業に働き集団に奉仕する「自分」の「発見」と結びついていた。

中根論文の出た1964年には、ルース・ベネディクトの指摘した「恥の文化」に関して、作田啓一による『「恥の文化」再考』が出ている。作田は、ベネディクトのいう「恥の文化」を「民族的個性をまず浮彫にしてみせるという点でやはりたいへん有効であるように思える」としつつも、ベネディクトは「恥の文化」の反面しかおおっていないと批判している。

作田啓一によれば、われわれが恥を感ずるのは、他人の拒否に出あった場合だけではない。われわれは、他人から一種特別の注視のもとにおかれた時に恥じる。ベネディクトが論じたのは、恥の一つのケース、「公恥」 (public shame) と呼ばれる側面にすぎない。「恥は現実の、あるいは想像上の他人の注視のもとで経験される。だが、すべての注視が恥の反応をひき起こすわけではない。われわれを恥じさせるのは一種特別の注視である。」

このように述べて、作田は「公恥」に対する「羞恥」の存在を指摘して、自己と他者の間に「志向のくいちがい」が生じるとき「羞恥」が起るといい、日本文化を「恥の文化」というのならば、「公恥への恐れよりも、一般にあらゆる注視にたいして警戒的であるという『志向のくい違い』への不安のほうに、日本人の特徴づけを求めるのが、むしろ適切であるように思われる。」と指摘している。

そして、柳田国男が、日本人は子供のときからはにかみがちであり、はにかみへの強い関心から「にらめっこ」という珍しい遊戯を発明したことを引いて、「羞恥」の重要性を指摘するのである。

作田が「羞恥」にとくに注目するのは、「恥の文化」の「肯定的」な性格を主張したいためである。

「羞恥」は、人を孤独な内面生活に引き込むが、「自己主張をぶつけ合う徒党と化す」よりも、もっと広い連帯を可能にする作用をはたす。自己の劣等な部分が八方から透視されている人間、集団という甲羅の一切が剥奪され、人間存在としての自己を主張しうる根拠を失った人間、そういう人間同士の連帯は、集団の砦を越えた連帯である。作田によれば、この連帯は、生産力の高まりによって競争の価値が低下し、階級・階層の壁がこわれるところまで進んだ未来社会において、人と人との結合の重要な一形式となるという。 

羞恥の共同体のマイナス面は、個人の創意工夫や自発性の表現を押さえつけることにある。作田啓一によれば、羞恥の共同体は、個人の創意工夫や自発性の表現を押さえつけるというマイナスの効果があるが、それと同時に、達成願望中心の集団的エゴイズムに対決するような集団のあり方を示す点でプラスの意味を持つという。日本の沈黙している大衆は、羞恥の共同体というものを構成している。作田によれば、この羞恥による共同体は、未来社会において人間どうしを結びつける重要な1形式になりうるのであり、「公恥」と「私恥」の両面をもつことで、日本社会の発展が進むと述べ、「恥の文化」の「肯定面」を強調し、日本における「はじらい」の文化を評価している。

 1964年に発表された中根千枝の「日本的社会構造の発見」と作田啓一の「恥の文化再考」により、「日本文化論」は新しい段階に入った。1965年には尾高邦雄の『日本の経営』が出る。尾高はこの本の中で、1958年に出たアメリカの文化人類学者ジェームズ・アベグレンらの『日本の経営』で指摘した「日本的経営」の「特徴」のとらえ方を批判した。アベグレンたちは、その特徴である「人事労務慣行」について検討し、「生涯雇用」「人柄と学歴を目安にする直接徴募」「入社前から決められている職員工員の区別」「業績よりも年功による処遇制度」「集団的意思決定と集団的責任の体制」「従業員福祉の温情的配慮」などの要素が、一つのシステムにまとめられ、企業や工場などの組織体を家族のような自然発生的な人間関係に擬して考えようとする価値理念となっていると指摘した。しかも、この「価値理念は「前近代的」で「封建的」と西洋人からみれば感じられるが、この「非合理的」な価値理念による「日本的経営」は輸入された西洋の生産技術と結びつくことによって、驚くべき効果を生み出したと論じた。

尾高は、こうした「集団主義」は、すでに江戸時代に形成された伝統的なものであり、西洋の「尺度」で「前近代的」とか「封建的」とか決めつけることは出来ないと反論して「日本的経営」を擁護した。「日本的経営」の伝統的で現代的な「肯定面」を「集団主義」の擁護の立場から論じており、またアベグレンたちのような「封建的」社会関係と西洋の生産技術の結合といった評価の行きすぎを批判した。

明らかに尾高の場合、ルース・ベネディクトのいう「集団主義」と「恥の文化」の企業集団に対する「効用」が意識されている。尾高邦雄は『日本の経営』(1965)において、日本の人事慣行の特徴を肯定的に評価したといえる。

1970年代には、精神分析や心理分析による「日本文化論」が出てくる。とくに、土居健郎『「甘え」の構造』(1971) と木村敏『人と人との間』(1972) は、精神分析と心理分析による「日本文化論」の提出としての特徴をもつ。

土居健郎の『「甘え」の構造』(1971)は、日本人の「育児」様式を観察し、「育児」と文化との関係、集団的「人格」への影響、日本独特の社会化の過程を分析した。日本人が生まれてから「社会化」の過程で経験する「母子」間の気持ちの上での緊密な結びつきを土台とした人間関係を分析すると、子供の母親への依存が核となっている。すなわち、日本人が「社会化」の過程で経験するのは、子供の母親への依存であるが、成人した後も、日本人は、家庭の内外で、母親依存と同じような情緒的安定を求め続けていく。土居によれば、日本の社会集団の中でも、「母子」関係の人間関係モデルは強く作用し、社会集団内の上下関係もこれになぞらえて形成され、目上と目下の関係は情緒的な感情を育む。

土居の「甘え」論は、日本人の「心性」と「人間関係」の基本に「甘え」があり、それは「受身的愛情希求」であり「依存性」であるが、その「甘えの心性」は「幼児的」なものである。しかし、「幼児的」であることは無価値ではなく、多くの文化的価値の原動力として働いてきたのであって、「義理も人情も甘えに深く根ざしている」のである。「甘え」は「母子」関係における子供のは母親依存に発するものであるが、それは「日本文化」の基調を形づくる。土居は日本人の性格の基本にある「甘え」は西洋人の「自立」と対比されるものであって、「甘え」は「日本人の心理に特異的なもの」と考えられると指摘する。土居は「甘え」の心理を非論理的で閉鎖的で私的と批判はするが、同時に、「無差別平等を尊び、きわめて寛容でさえある」と評価し、日本人の社会関係や集団にとっては、これが積極的な肯定的意味をもつと述べる。「甘え」という日本語自体が西欧語に同意語をもたないと主張することによって、土居は「日本文化」の性格に対してなされてきた否定的評価を逆転させ、日本文化の特殊性を認めかつ肯定的にとらえることになる。

土居健郎の立場は、フロイト学説のアメリ文化人類学の立場からの「読み換え」である。土居健郎の「甘え」論は、それまでに出ていた「日本文化論」の中でも、中根千枝の「タテ社会」論や作田啓一の「羞恥」論と共通するものをもっている。中根のいう「タテ性」は「甘え」の心理によって支えられ、作田のいう「私恥」も「他人に依存したい」という「甘え」の心理に基づくものと解釈されうるからである。

土居も「甘え」を全面的に「肯定」しているわけではなく、中根が行ったような日本人・日本社会の「論理性の欠如」や「閉鎖性」が「甘え」から生ずるものといって批判的観点を示しはするが、結局は、その独自性を西洋人の「自立」と対比させて、「甘え」が子供の成長にとって必要であることを説き、その積極的な役割を評価するのである。日本人の人間関係において「甘え」は潤滑油のような役割を果たしていて、成人間においても精神生活の健康を保つのに必要であるというのである。

木村敏の『人と人との間』(1972) によれば、西洋人における「自己」とは、「自分というものが、いついかなる事情においても、不変の一者としての自我でありつづける」ところに特徴があり、これはデカルトの命題に結びつく。「われ思う、ゆえにわれあり」という有名なことばを分析して、「コギト」(われ思う)が一人称の動詞で言われている点に注意を促す。「われあり」の根底として求められたはずのコギトが、すでに「われ思う」として、「われ」の存在を前提としている。このことから、木村は、西洋人にとって、「われ」の問題にならぬような思考などは、想像すらできないことであるというのである。

日本人が「自己」を意識していう「自分」ということばは、西洋人の場合と違い、明確な個人主体としての「自我」ではなく、恒常的に確立された主体ではない。日本人においては、「自己」は「自己自身の存立の根拠を自己自身の内部にもっていない」。西洋人の「セルフ」(自我)に対して、日本人はちがった形で「自己」を認識している。

木村は次のようにいう。「セルフとは、いかに他人との人間関係の中から育ってくるものであっても、結局のところは自己の独自性、自己の実質であって、しかもそれがセルフと言われるゆえんは、それが恒常的に同一性と連続性を保ち続けている点にある。これに対して日本語の『自分』は、本来自己を越えたなにものかについてのそのつどの『自己の分け前』なのであって、恒常的同一性をもった実質ないし属性ではない。」

「日本的なものの見方、考え方においては、自分が誰であるのか、相手が誰であるのかは、自分と相手との間の人間的関係の例から決定されてくる。個人が個人としてアイデンティファイされる前にまず人間関係がある。人と人との間ということがある。」また「日本では『私』が誰であり、『汝』が誰であるのかは、けっしてそれ自体で決定していることではなくて、そのつどの『私』と『汝』との間、つまり人と人との間のあり方によって、そのたびごとに改めて規定されなおされる。」

「セルフ」と「自分」との決定的なちがいは、ここにあると木村はいう。この木村の主張にはっきりと示されるのは「近代化」の絶対的前提としての「西欧」的個人主義の優位はとくに評価されておらず、日本人の「自分」の積極的評価が示唆されていることである。

 

青木保『日本文化論の変容』の視点からみる日本劣化のプロセス (2)

 第2期 「歴史的相対性の認識」の時期(1955~1963)(昭和30年~38年)

 前回に引き続き、青木保『「日本文化論」の変容 ―― 戦後日本の文化とアイデンティティ ――』(1990年、中央公論社)を読み進めながら、日本劣化の過程を考えていく。今回の考察対象は、1955年(昭和30年)から1963年(昭和38年)にかけての時期に出版された「日本文化論」の内容の特質である。 

青木保が第二期「歴史的相対性の認識」の時期と呼ぶのは、1955年(昭和30年)から1963年(昭和38年)であり、その時期に現れた「日本文化論」には、ある内容的特質があるという。それが青木のいう「歴史的相対性の認識」ということである。

1950年代に入ると、戦争直後の混乱も徐々におさまってきて、朝鮮戦争の特需景気により、敗戦国日本は経済的な「離陸」をはじめる。アメリカの占領からの独立の後で、「もはや戦後ではない」と『経済白書』が宣言する1955年(昭和30年)を境として、比較文明論的な新しい「日本文化論」が出現する。

朝鮮戦争の特需景気が日本経済の追い風になった。それにつれて、「日本文化」の位置づけも、「否定」から、「否定」の見直しがなされるようになる。海外渡航が重い制限つきながら認められるようになって、ほとんど最初に日本を飛び出した人々による比較文明論的な「日本文化論」が出現してきた。とくに大きな影響を与えた論文は、加藤周一の『日本文化の雑種性』(1955年) と梅棹忠夫の『文明の生態史観』(1957年) であった。

加藤周一の『日本文化の雑種性』と梅棹忠夫の『文明の生態史観』というこの二つの「日本文化論」の特徴は、比較文明論的な世界における日本文化の位置づけであり、「近代化論」や「マルクス主義」のもつ閉鎖的な議論ではなく、日本を飛び出した人々がかなり自由な発想を展開することにより、論壇や知識人サークルを超えて、広く一般に迎えられ、その後の「日本文化論」の流れを変えた。独立の達成と経済的な回復によって、日本社会が落着きを取り戻しはじめたところへ、この二つの「日本文化論」の出現は日本人の精神的な「安定」をうながすような影響を与えたといえる。

加藤周一の『日本文化の雑種性』(1955)(昭和30年)は、いわゆる「雑種文化論」である。加藤の「雑種文化論」は、西欧対日本という比較軸の上で展開されており、「日本文化」の可能性を、西欧近代主義の追跡だけでなく、また「伝統回帰」のパターンに陥ることなく、探ろうとした。

加藤周一は戦後いち早く新しい西欧文学の紹介をし、同時に文芸批評や文化評論を、新しく西欧の合理主義や現代思想の手法を取り入れて行っており、数年の西欧生活体験の後、あらためて日本を発見しなおそうと試みた。加藤は「和洋折衷」的生活様式を肯定する。

加藤周一のいう「雑種文化」論とは、戦後いち早く渡欧した経験をもとに、西洋(とくにイギリスとフランス)との比較の上で、「英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本の文化は雑種の文化の典型ではないかということだ」とする議論である。もっとも英仏の文化もその源をさかのぼれば、ギリシア=ローマ以来の伝統を引き継いているわけで、外来の文化の影響を受けていないとは決していえない。しかし、その後の「文化的国民主義」の発達によって、「原理に関しては、英語の文化も、フランス語の文化も、純粋種であり、英語またはフランス語以外の何ものからも影響されていないように見える」。それに対し、日本文化は違うと加藤はいう。

日本的なものは他のアジア諸国とちがい、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにももとめなければならないと考えるようになった。伝統的な日本から西洋化した日本へ注意が移ってきたということでは決してない。そうではなくて日本文化の特徴は、その二つの要素が深いところで絡んでいて、どちらも抜き難いということ自体にあるのではないか。」

加藤周一『日本文化の雑種性』(1955)

この考え方は今日の日本に対しても、まだ有効性を保っているように思える。加藤は、西欧から帰ってきて、日本の自然と伝統の美しさに感激するとともに、その工業化の著しい発達に目をみはる。加藤周一が西欧から帰ってきて、神戸に上陸して見出した「日本」は、マルセイユシンガポールとも異なる、西洋そのものでも植民地西洋でもない、日本と西洋の「折衷」であって、この「二つの要素」からなる「雑種」以外のなにものでもない。

「雑種文化論」は、こうした加藤の日本「発見」の過程に生まれてきたものであり、加藤の「雑種文化論」には、日本近代を「西洋化」で見ることからも、「伝統への回帰」で論じることからも、「文化問題について国民主義的でなければならぬ」とすることからも自由でありたいという主張が込められている。「雑種ということばによい意味もわるい意味もあたえない」し、「純粋種に対しても同じである」と指摘し、「雑種とは根本が雑種だということ」だと述べる。中国をはじめとする大陸からの外来文化の影響は、もちろん深いところで日本文化を規定しているが、加藤がここで指摘するのは現代日本を考える場合、「政治・教育、その他の制度や組織の大部分も、西洋の型をとってつくられたもの」であって、そもそも「日本的伝統」が「純粋種」として成立するものではないということである。このことを日本人一般は生活上よく実感しており、「雑種をそのままの形でうけ入れ、結構おもしろく暮らす方法を工夫している」のであり、「和洋折衷」は日本人の生活の中では、うまく溶け合っている。しかるに、「知識人」はそれを自然に許容することができない。「知識人が文化問題に意識的であればあるほど」日本文化の「雑種性」を攻撃し、「純化」したいと思うようになる。「日本文化」の「純粋化」運動がそこで起こるが、これは「必然的に失敗の歴史」を繰り返すことになるという。

加藤はそこでつぎのように主張する。

「日本の文化は雑種であり、それはそれとしてまた結構である。」

加藤周一『日本文化の雑種性』(1955)

加藤によれば、「ほんとうの問題」は純粋文化に対して劣等感をいだくことではなく、「文化の雑種性そのものに積極的な意味をみとめ、それをそのまま活かしてゆくときにどういう可能性があるか」「文化の雑種性にはほんとうに積極的意味があるのか」を追求することであり、それは「むろんあると私は思う」、「徹底的な雑種性の積極的な意味」を問うことの値打ちは十分ある、というのである。

加藤は、「日本文化」を「純粋化」しようとする思想に釘を刺し、「日本文化」の「純粋化」運動は、「必然的に失敗の歴史」を繰り返すと述べ、「日本の文化は雑種であり、それはそれとしてまた結構である」と論じたのである。

加藤のような、日本の生んだきわめて純粋な「西洋型」の知識人が、日本文化の「雑種性」の積極的な意味を問い、その可能性を信じ、「日本人は西洋のことを研究するよりも日本のことを研究し、その研究から仕事をすすめていった方が学問芸術の上で生産的になるだろうと考えた」ことは大いに「意味」のあることであった。 

 1955年(昭和30年)は、日本経済が「高度成長」の段階に入った年といわれる。敗戦日本の「自信喪失」からの回復が、知識人の「日本回帰」という形でも現れてきたことは、加藤の日本文化の「純粋化」運動への批判と警告にもかかわらず、事実であった。しかし、青木保によれば、本当は、加藤のような「複眼的」な視点をもてる知識人は、学問芸術の上だけでなく、「日常性」へ深く参入する形での「西洋理解」をすることが必要であった、という。加藤論文の出た1955年(昭和30年)を境として「日本文化論」は、加藤の危惧するような「純粋化運動」へと「離陸」してゆくからである。

「雑種文化論」の影響は広範囲にわたった。「雑種文化論」は一般には次のように解釈された。

 すなわち、日本文化は、大陸からの影響と黒船以来の「欧米」化の波にさらされてきたが、そこに生まれた「雑種性」には積極的な意味がある。「英仏」など西欧の「純粋種」に劣等感をいだく必要はない。むしろその「雑種性」に「欧米」とはちがった可能性を見出すべきである。加藤の「雑種文化論」の意味は、このように解釈された。

加藤の主張は、当時の「日本人」を大いに勇気づけることとなった。それはこの時期の日本が何らかの形で「外部」から見た、日本人とその社会・文化の可能性を保証するものを欲しいと感じていたからであり、「雑種文化論」はその心理に応えるものであった。

「雑種文化論」が出てから二年後に、梅棹忠夫による『文明の生態史観序説』(1957)が現れた。梅棹忠夫は、西欧と日本の「文明」の「平行進化」を主張した。

 「高度な近代文明の日本における達成は、単なる西欧モデルの模倣ではなく、西欧と日本との歴史における「平行進化」と考えることができる。」

梅棹忠夫『文明の生態史観序説』(1957)

 梅棹忠夫は、世界を第一地域と第二地域に分け、日本と西欧を第一地域に分類し、中国・インド・ソ連(現在のロシア)などを第二地域に分類して、日本を先進資本主義国の一つとして位置づけ、その生活様式の特徴からみて他のアジア諸国など第二地域に入る国々とは異なると位置づけた。梅棹によれば、西欧と日本は、ユーラシア大陸の西端と東端にあり、その生態学的な位置と歴史的過程において、よく似た条件をもっていたため、平行進化が起こったのは必然の成り行きであった。日本の高度な近代文明の達成は、西欧の模倣によるものではなく、梅棹の「生態史観」からすれば、それは必然の成り行きであった。植物生態学では「一定の条件のもとでは、共同体の生活様式の発展が、一定の法則にしたがって進行する」。それと同じことが日本の文明と西欧の文明の間で生じたのだという。

梅棹忠夫の「生態史観」は「脱亜入欧」で通してきた日本を、理論的に擁護する日本文化論であると受け取ることもできる。加藤周一の『日本文化の雑種性』(昭和30年)が日本の「和洋折衷」を肯定する理論であるとすれば、梅棹忠夫の『文明の生態史観序説』(昭和32年)は日本の「脱亜入欧」を肯定する理論であったといえる

ここで注目すべきなのは、日本の現在への肯定的な評価を強く打ち出す梅棹の論調である。梅棹によれば、地理的歴史的な関係からいえば、日本は当然アジアの一員に違いないが、現代日本の示す特徴は明らかに「西欧」的であって、他のアジア諸国との「差」の方が大きい。日本は「極東」(Far East) ではなく、「極西」(Far West) である。梅棹によれば、日本は他のアジア諸国一般と較べて格段にすぐれた日本の「近代文明」を発達させたのであり、日本の現在は決して「否定」されてはならない。梅棹の『文明の生態史観』は、日本の現在の「肯定」と西欧との「平行進化」の指摘とによって、日本人とその「文明」の可能性を積極的に高揚する強いメッセージ性をもっていた。

加藤の「雑種文化論」と梅棹の「生態史観」は大変異なる外観を示しているが、実際には似た主調音を鳴らしている。この二人の論者はともに「日本文明」の積極的で肯定的な意味を「生活実感」においており、イデオロギーや思想に求めてはいない。「和洋折衷」でも「脱亜入欧」でも何でも、日本の現在が享受する「文明」生活の「よさ」を評価するのである。 

加藤周一梅棹忠夫には、川島武宣丸山真男のような、日本の「後進性」への「否定」はみられない。加藤も梅棹も、近代西欧との相対的な比較の視点を提示しており「西欧モデル」の模倣や追従という観点を斥けている。

この時期には、敗戦日本の「自信喪失」からの回復がみられ、1955年(昭和30年)の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と述べるに至って、「伝統回帰」のパターンに陥ったり、自信喪失に陥ったりすることなく、日本人の可能性を世界史のなかに位置づけ、積極的に評価しようとする試みが現れるようになった。

しかし、興味深いことに、この第2期の時期には「外部」の眼も日本を同じようにみていた。たとえば、この時期には、アメリカの研究者、ロバート・ベラーもまた、『日本近代化と宗教倫理』(1956)で、日本の「近代」を西欧の近代と比較して、そこに一種の「平行現象」を認めている。

ベラーは、明治以後の近代国家建設と産業化に日本が成功した原因を、「日本宗教」に求め、石田梅岩石門心学徳川時代プロテスタンティズムに見立て、それを産業化の要因とみなした。ベラーは、武士階級と産業化の関係を追及して、「徳川時代の強固な政治体系と支配的な政治価値は、明らかに、産業社会の勃興に適していた」と指摘した。ベラーの『日本近代化と宗教倫理』には、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』との類比がある。ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の適合性を指摘したのと同様に、ベラーは、明治以後の近代国家建設と産業化に日本が成功した原因を、徳川時代における「宗教倫理」の分析から導き出そうと試みたのである

ベラーによれば、非西欧社会で産業化を遂行する場合、西欧社会が時間をかけて資本と技術の蓄積を行って産業主義が発達したという歴史的背景を欠いているために、政府支配による急激な資本の準備が必要とされたから、政府だけが産業主義を発達させることが出来るという上からの産業化にしか可能性がないという。ベラーは、そのような状況にあっては、政治および政治価値の強さが決定的な要因となると指摘して、次のように述べる。

すべての主要な非西欧社会の中で、日本が、強力な政治体制と中心的な政治価値をもっている点で、特異な存在として目立っている。そして、私の意見では、とりわけこの特質によって、日本が他と異なって産業化を受けいれたことが分かる。

ロバート・ベラー『日本近代化と宗教倫理』1956年  

ベラーは、他のアジア諸国と異なり、「日本宗教」にはきわめて「合理的」な面があり、ヒンドゥー教儒教またイスラーム教のもつ「合理性」とはちがう「産業化」を邪魔しない、社会変化を妨げない性格が「日本宗教」にはあると述べる。

青木保によれば、ベラーの『日本近代化と宗教倫理』(1956) は、そのメッセージが加藤周一梅棹忠夫の所論とも重なる日本の可能性を積極的に評価するという点と、「西欧」との「歴史的相対性」を示すものとして、まさに同じこの「歴史的相対性の認識」の時期を代表する日本文化論であると考えられるという。

また日本と西欧の歴史的な類似性を強調する視点としては、E. O. ライシャワーによる「封建制」の西欧と日本の比較研究も同じような「歴史的相対性の認識」を示している。(E. O. ライシャワー『ザ・ジャパニーズ』文藝春秋社、1979年)

こうした「外部」の眼による世界における日本の位置づけも、この時期には、肯定的な日本評価と受けとることの出来るものが増えてきた。

「雑種文化」であるにせよ、西欧との「平行進化」であるにせよ、日本人の「自己確認」にとっては、敗戦後の屈辱と劣位意識、誤れる過去の認識、封建遺制と前近代性といった「否定的」認識から、ようやく日本の「独自性」の主張、それも先進欧米諸国との類似性を強調する認識へと変貌しつつあったのであり、その認識は、日本人の「自信回復」に大きく役立ったといえる

この時期の特徴の一つは、アーノルド・トインビーの著作の紹介や翻訳が出て、「比較文明論」への関心が高まったことである。梅棹忠夫の『文明の生態史観』にもトインビーの影響が見られる。このトインビーへの関心は、一系的進化論や発展段階論、近代主義の示す「西欧中心主義」に対する懐疑や反撥の出現と呼応していた。

「日本文化」が、加藤周一のいうように「雑種文化」であり「和洋折衷」であるにせよ、また梅棹忠夫の示唆するような「平行進化」であり「脱亜入欧」であるにせよ、『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言した昭和30年頃から、「日本文化」を欧米文化と同等であると考える「日本文化論」が出現してきたことは注目に値する。

今日の視点からすると、梅棹の『文明の生態史観』は荒唐無稽な噴飯ものの議論にも見えるが、それまでの「日本文化」の後進性を否定する議論に対して、「日本文化」を欧米と同等に位置づける別の視点を提示したことは、日本人に自信を取り戻させる効果を及ぼすものであったといえる。

しかし、今日の視点から見ると、加藤周一の『雑種文化論』のほうが、文化の「純粋化」運動にたいする反論として、いまもなお重要な内容を含んでいるように見える。

いずれにせよ、加藤周一の『日本文化の雑種性』と梅棹忠夫の『文明の生態史観』は、昭和30年代の初頭にあって、「日本文化の特殊性に対する否定的認識」を排して、「比較文明論」による相対性の視点を提示してみせた。それが次の時代、「肯定的特殊性の認識」の時期につながっていくのであり、とくに梅棹の「生態史観」は、いわば比較文明論の仮面を被ったナショナリズムの顕現という一面もあるが、日本の劣化がとくに顕著にその論調から窺われることはない。敗戦後、日本文化の特殊性を否定する見解が主流であった時期から、時代は徐々に日本人の「自信回復」と「日本回帰」を示す雰囲気へと変わっていく。

本当に日本人の劣化を考えねばならなくなるのは、次の第三期の時期からである。

青木保『日本文化論の変容』の視点からみる日本劣化のプロセス (1)

「日本文化論」の内容から見た戦後日本の思想史

青木保『「日本文化論」の変容 ―― 戦後日本の文化とアイデンティティ ――』(1990年、中央公論社)は、日本文化論の内容を分析することから見た戦後日本の思想史であり、今日の視点から見ると、とくに1980年代に現れてきたジャパンバッシング(日本叩き)の考え方をうまくまとめている。

続きを読む

初めて投稿する記事

ブログを開設した。

まだ使い方がよく分からない。

設定もまだ十分にできていない。

とりあえずブログの開設だけしておいて、記事はのんびり書いていきたい。

最初に書きたいのは、青木保氏の『日本文化論の変容』という著書である。

だが、いまわたしの手元には、この本がない。

たしか副題があったはずだが、それもよく覚えていない。

わたしの記憶では、この本は、日本文化論を読み解くことで、戦後日本が歩んできた時代のムードというか時代精神 (Zeitgeist) の変容が描かれていた。

その1980年代についての青木氏の論評を見直したいと思ったのである。

というのも、この1980年代から日本の劣化が始まったとわたしは考えているからである。 

図書館からこの本を借りてきて読み直すことから、このブログを始めようと思う。

あまりブログの更新を急ごうとは思っていない。1~2週間に1回記事を書ければいいぐらいに思っている。

いつか図書館からこの本を借りてこれたら、1980年代のジャパンバッシングについて書き始めてみたい。

今日はブログを開設したというだけにすぎない。

文化庁長官も務めた青木保氏には、『日本文化論の変容』(1990年、中央公論社)という名著がある。それを読むと、1980年代後半から1990年代にかけての「ジャパン・バッシング」(日本叩き)がどれほど強烈なものであったかが分かる。

青木保氏のその著書を読んでいくことで、1980年代後半から1990年代にかけての「ジャパン・バッシング」の雰囲気をある程度まで理解することができるとわたしは考えている。

エズラ・ヴォ―ゲルが1979年に公刊した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、文字通り「世界ナンバー・ワン」は日本だということをアメリカ人が認める著作だった。今のように、「日本人はこんなにすごい」とテレビの中で無理に言わなくても、アメリカ人が「ナンバー・ワンとしての日本」を認めていたのだ。

しかし、1980年代に入り、「日本叩き」(ジャパン・バッシング)が起こった。

日本が崩れはじめたのはこのころからだと、わたしは考えている。

もう1冊、村上由見子氏の『イエローフェイス』という映画の本にも、たしか1980年代のジャパンバッシングについて書かれてあったように思う。だが、この本もわたしの手元にはない。いつかこの本も借りてこよう。

また、こういった話題だけではなく、そのとき書きたいと思ったさまざまな話題について書いていきたい。

今日はとりあえずブログを開設できただけで満足している。